“決心する”価値と、“心が弱い人”を責められない構造

4月に入って新社会人になった人や、新学年が始まって、やる気みなぎって何か新しいことを始める人へ。


3週間後もすれば、そのやる気はどこへやら
すっかり腐抜ける、もしくはコンニャクの意志だと、自分自身に失望する人が後を絶たないわけです。


もしくは、感化される映画を見てモチベーションが狂ったように上がってやる気に満ちても、三日で「あの時の情熱はどこへ?」となったり


はたまた、あれだけの悔し涙を流して「次こそは絶対に成功させる」と自分に誓っても、すぐに腐抜けた自分に戻ってしまうと。




こういったことはことは、本当に自分の“意志が弱いから”、“決心の度合いが足りないから”といったことが原因なのか?


大丈夫。
決して、「自分が根性無しだから」ではないということをサポートするお話を紹介。


“やる気”がなぜ続かないかという精神的な話を、今をときめく“生物学者”が生物学からのアプローチで理由付けしていた印象深い話。参考になった本は今、手元にないけど、この著者の福岡伸一という教授曰く「生物には“動的平衡”という仕組みが“常に”“意識されずとも”働いている」ということらしい。

「動的平衡」とは、例えば、人間の全身の皮膚細胞は3カ月ですべて新しいものに代謝されるが、それではあなたは3ヶ月後には“別のあなた”になっているのか?
もちろん3ヶ月後の、あなたも“あなた”であると。

別の例に変えると、それは、砂浜に作った砂のお城が、風に吹かれて元あったお城の表面の砂が飛ばされて、新しく吹かれてきた砂粒がお城の表面に引っかかっていっても、全体としての「お城の形」には変わりがない。それでも確かに、刻一刻とお城を構成している砂粒は変わっていっている。


まとめると、動的平衡とは「構成する砂粒は変わっても(動的)、全体としてのお城の形は変わらない(平衡)」ということらしい。

つまり、人間には「変化があっても、常に安定な一定の状態であろうとする性質」があるらしい。
これは生物にとってはものすごく重要な機能で、
分かりやすい例では、
39℃の熱が出ても、人間の体は自動的に平熱(安定な体温)に戻そうと働く。
怪我をして皮膚がえぐれても、骨が折れても自動的に元の状態(安定で一定な状態)に戻ろうとする。
神経系に損傷を負っても、いかなる経路を使ってもリカバリーしようとする。
こういう例は人体にはおそらく膨大な数で存在する。


そこでこの教授は人間の精神的な「気持ち」というのも同じではないのかと説明していた。

例えば、
映画を見て大興奮したり、悔し涙を流して明日への決心を打ち立てても“あ、これはいつもの平常な状態・安定な状態ではないな”と体が認識して、いかなるホルモンを放出しても、気持ちの高ぶりをもどそうと働く。気分の振れ幅(動的)を安定な状態(平常の状態)にしようとする、と。

昨日まで、英語なんてまったく触れてなかったのに今日から突然毎日単語を10個づつ覚えようとして、(意識しなくても)ストレスがかかる→ストレスを無くそうと(その習慣を失くさせようと)体が働き、集中力を殺がしたり、退屈だと脳に働きかける。

引っ越しをしたり留学したり住む場所を変えようとしても、“いつもの環境じゃないぞ、元の住み慣れた・安定した環境に戻ろう”として、引っ越しを延期する。ホームシックなんてのはまさにこれが原因だと。別に家族が恋しいのではなく、今までの安定した環境から変化した環境に移ったから元の場所に戻ろうと、体が働きかけているのだと。

つまり、
「今までの自分から、もっと素敵な自分に“変わろう”というポジティブな意志」は、生き物ならだれもがもつ動的平衡という「生物が生きるために必要不可欠な機能(変化するものを安定な状態に戻そうとする機能)」によって阻害されていると。

だから、新しく始めようと決心した習慣が続かなくても、あなたの“意志が弱い”からではない。人間は生き物の機能としてそういうふうにできている。



この話を、どうとるかはその人次第やけど、少なくとも自分はこれを結構ポジティブにとっていて、なにか挫折しそうな時は
「今、おれの“生き物としての機能”が、毎日英単を覚えようとしていることにストップをかけようとしてる!!!負けるかこの野郎!」
と訳のわからない戦いを毎回してる。


そう考えると、チャレンジする苦痛も少しは楽にならない?
新しいことに挑むのに躊躇することはあなたの“性格”が向いていないからじゃない。
生き物としての機能である“動的平衡”があなたにストップサインを出しているだけ。

あなたは“たかが機能”にこれからも負け続けますか?
三日坊主も、コンニャクの意志も、心が弱いのもあなたの“能力の低さ”を表すものではないのに?

何回も何回も自分に言い聞かせる意味も含めて書いてるけど、
人生を変える方法は3つしかないらしい。

「付き合う人を変える・物事に費やす時間配分を変える・住んでいる環境を変える」
そして一番無意味なのが「頑張ろうと“決意すること”」らしい。


4月。
動的平衡を意識しつつまた何かを始めよう!
だって、“新しいこと”は、きっと楽しいことがいっぱいあるはずやもの

近状報告とか

アメリカ生活も半分が経過したので、ちょっと途中報告・近状報告
でも、文章にするのは辛いので、誰かさんに習って箇条書きで。今回はまじめverでゲス。


・生活について。

今タームからようやく好きな授業が取れるようになった。今はコンピュータープログラミングの初歩の初歩、あとクラシックギター!それと引き続き英語の授業をとってます。でも、コンピュータープログラミングとギターは、ずーーーーーーーーーーーーーーーーーーとやりたかったものやから、もうめっちゃ楽しい!毎日大充実!


・食べ物について。

オモロいことにアメリカはホンマにハンバーガーしかない!笑。でも、もともとハンバーガー大好きなので、ほぼ毎日と言っていいほど昼か夜に食べてる(もともと、「おいしい」と「めっちゃおいしい」の境界がないから「まずく」なかったらヘビーリピートしても苦じゃない性質で)。

でも、最近ここ一年なりを潜めていた持病の偏頭痛が再発して、もしかしたらこれは糖分(と塩分?)の過剰摂取じゃないかという仮説が出てきたので気持ち抑えてます、これでも。コーラとか。

大好きな日本人の友人がご飯作ってくれます。。。いっつもありがとー!で、ちょっと料理もできるように?なりました。あの自炊大嫌いな、大学四年間でたぶん両手両足で数えられるくらいしか自炊しなかった人間がですよ!?褒めて!



・人間関係について。

ここでやりたかったこと、確かめたかったことのひとつ。

自分は元々交友的な方じゃないし、シャイな部類の人間やと思ってるけど、日本では何でも話せる友達も少しはいるし、人間関係も悪くなかった(ハズ)。

それでもやっぱり20年も住んできた日本でやからこそできたことかもしれない。だからぜひ徒手空拳・単身で言葉も不自由なところに来て自分ひとりでごまかし無しに「22歳現在の自分のパーソナリティだけで」どこまで友達が作れるかをぜひ試してみたかった。
来た時はほんとに「友達100人できるかな」な小学生の気持ち。けっこう頑張ったもの。

で、幸い、一人ぼっちにもならずオモシロい人間にも沢山会えて楽しい生活をおくれてます。

日本にいた時は、人に頼ることは気分が悪くて、悪いこと・申し訳ないことのように思ってできるだけ自分一人でやろうとしてたけど、ここに来てからはすごくいろんな人に面倒を見てもらって迷惑もバンバンかけてる。
でも「人に頼ること」は自分で思ったよりも気分の悪いものではなかった、かも。すごく感謝。日本に帰ったら人の面倒をもっとみられる人間になろう。


・アメリカ人、日本人について。

ここに来てからずっとワクワクしていた自分に日本の研究室の教授が「なんでも素敵に見えるのは始めだけ始めだけ、アメリカ人は大したことない」としきりに言われていた。

割と、未だに毎日何かしら「おお!日本と違う!」みたいなことを大なり小なり見つけて、新鮮さは無くなってはいないけど、さてさて、アメリカ人が大したことないかは置いといて、ここにいる「日本人」がヤバい。オモシロすぎる。 もちろん、funnyじゃなくてinterestingの方の。

たぶんこれを言ったら先生に怒られそうだけど、自分の興味は完全にここにいるアメリカ人よりも日本人に向いてる。

「個性の塊大和人間」がゴロゴロしてる。

たぶん20人ぐらいの日本人と会ったけど、没個性的な人間が一人もいない、しかもみんな優秀で、物腰が柔らかくて、いい感じに日本人離れしてて、性格が気持ちいい。何より人として魅力のある人が多い。こんな人が「石を投げれば当たる」確率でいてびっくりする。

どうも自分は質問魔らしく、アメリカに来てからは英語でも日本語でも「話す」より「聞く」ことが天地の差で多い。こんなにも「聞く」会話が楽しいことなかなかなかったなーと。

特に女の人がオモシロい。
記憶の中にいない様なタイプの女の人ばかり。
自分はフェミニストではないけど、ぜひこんな優秀な女の人たちが好きなだけバリバリ働ける社会になってほしい。

またまた怒られるかもしれないけど、女の人の基本パフォーマンスって男よりも凄いんじゃないかと思う。
基本的にコミュ力高いし、環境変化に順応しやすい。男が思う以上にタフだし、粘り強い。母性本能?とか含めて「優しさ標準装備」。そして、勉強と遊びのバランス取るのがうまい? なんか、そんな印象です、個人的に。うーん

要するに「素敵」。

自分の小さな箱から脱出する方法

ちょっと思ったこと。



よく「自分らしく生きる」「自分らしく振る舞う」「自分のキャラじゃない」 って言葉をよく聞くけど


「自分らしい」ということを考えているのはやっぱり「自分」なわけで、他人が「自分らしい」私を指摘してくれるわけでも教えてくれるわけでもない。


つまり「自分らしく生きる」というのは、「自分の知りえる自分ができること」の範疇でしか思考・行動できないわけで、自分が想定できないことは行動できないことになっちゃうわけですよね。

これはすごいバカで、すごいもったいないことやと思う。


その人は他人ができないすごいことをできる能力があるのに、自分で「そんな大それたことはできない。自分のキャラじゃない」と思うだけで、その人の将来の選択肢から可能性がばっさり切り落とされる。


「ヒトは、自分の知らないことは”存在しないこと”として認知される」というのは真理やと思う。


というわけで、特に若いうちほど「これは自分には向いてないな〜自分のキャラじゃないな〜」と思うものこそ、試しにちょこっとやってみる、というトライを繰り返さないといけない。

向上心がある・ない、競争心がある・ないってことに関係なく、ちょこっとトライを続けとけば自分の予想しないオモシロいことが起こる可能性が上がると思うんやけど、どうですかね?



こういうのって生まれつきの性格とかキャラじゃなくて「習得できる技術」やと思ってる(そうあってほしいと希望してる)んやけどどうかね〜



「自分の殻を破る」って言葉があるけど、心理学の言葉で「自分の小さな箱から脱出する」と言うらしい。こちらの方がお気に入り。

個人的には、学問を積むよりは自分の箱から脱出したほうがオモシロい人間になれると思う。

「自分らしい」をキープし続けるのってそんなに大事かね?どう思います?

”岩”の定義

言葉遊びが好きな人に、次のお話をご紹介



以下、書籍「七つの習慣」のコピペ
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ある大学でこんな授業があったという。 



「クイズの時間だ」教授はそう言って、大きな壺を取り出し教壇に置いた。
その壺に、彼は一つ一つ岩を詰めた。壺がいっぱいになるまで岩を詰めて、彼は学生に聞いた。
「この壺は満杯か?」教室中の学生が「はい」と答えた。
「本当に?」そう言いながら教授は、教壇の下からバケツいっぱいの砂利をとり出した。
そしてじゃりを壺の中に流し込み、壺を振りながら、岩と岩の間を砂利で埋めていく。
そしてもう一度聞いた。
「この壺は満杯か?」学生は答えられない。
一人の生徒が「多分違うだろう」と答えた。

教授は「そうだ」と笑い、今度は教壇の陰から砂の入ったバケツを取り出した。
それを岩と砂利の隙間に流し込んだ後、三度目の質問を投げかけた。
「この壺はこれでいっぱいになったか?」
 学生は声を揃えて、「いや」と答えた。
教授は水差しを取り出し、壺の縁までなみなみと注いだ。彼は学生に最後の質問を投げかける。
「僕が何を言いたいのかわかるだろうか」



一人の学生が手を挙げた。
「どんなにスケジュールが厳しい時でも、最大限の努力をすれば、
 いつでも予定を詰め込む事は可能だということです」

「それは違う」と教授は言った。



「重要なポイントはそこにはないんだよ。この例が私達に示してくれる真実は、
 大きな岩を先に入れないかぎり、それが入る余地は、その後二度とないという事なんだ」


君たちの人生にとって”大きな岩”とは何だろう、と教授は話し始める。
それは、仕事であったり、志であったり、愛する人であったり、家庭であったり・自分の夢であったり…。
ここで言う”大きな岩”とは、君たちにとって一番大事なものだ。
それを最初に壺の中に入れなさい。さもないと、君達はそれを永遠に失う事になる。
もし君達が小さな砂利や砂や、つまり自分にとって重要性の低いものから自分の壺を満たしていけば、
君達の人生は重要でない「何か」に満たされたものになるだろう。
そして大きな岩、つまり自分にとって一番大事なものに割く時間を失い、その結果それ自体失うだろう。

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 ところで、自分が海外に行く理由、というより行動の原理にしている考えがあります。
 大義名分、とまでは大それたもんじゃありません。

 ただ単に、ただ一つの価値観・文化にもとった、悪く言えば縛られた、考え方しかできない頭の固い人間になりたくないだけです。がしゃがしゃと本を読むのも同じ理由。本は自分以外の誰かの考えや考え方を教えてくれるものだから。「そんなこと考えるんかぁ〜」と思わされる時が一番ニヤニヤする時すね。

 でも、これは言うまでもなくすごく難しいことです。だいたい人間は年をとれば一つの考えに縛られていく生き物のようです。それは生物学的にそうなのか、または個人の資質としてそうなるのかはわかりません。
 だからこそ価値観・考え方が一つに縛られていく様を、それがその人の好み、個性、生きてきた道、オリジナリティーだ、アイデンティティーだと手を変え品を変え、耳に良いように表現されるのがいまいち納得ができない。

 まあ、理想はこうでも未だに自分の殻すら破れない人がこんなことを言ってるわけやけども。難しい。
 自分の入れ物に他の価値観を入れるためには殻を破って出入り口をつけなあかんのですね。既存の価値観に入口をつけるのは難しい。

 

そこで、
上の壺の話は十人十色の解釈ができると思いますが、おれは「岩の大きさ」に考えさせられたのです。



 ある人は「自分の中に筋を通さなあかん」とたびたび話してくれます。筋、とは上の話に言い換えるなら一番初めに入れる岩のことかな。

 ある人は壺の中、限界よろしくまでに一つの大きな岩を持ってる人がいるんですね。はっきり言って羨ましい。なぜならその岩は、その人の重り、つまり自信にもなるわけですから。

 ただ、自分の場合には、大きな岩を入れることに対して少し勇み足をしてしまう。それは大きな岩に壺が占領されて他のものを入れる量が減ってしまうことが怖いからです。数少ないものに重心を置きたくないのです。
 そして「岩の大きさ」にばかりこだわっているから肝心の「岩自体」がなかなか見つからない・・・高望みしすぎですかね?

 
この話の別の解釈には、まず水を入れ、砂を入れ、砂利を入れ、それらがいっぱいでこぼれてしまっても、つまり、失うことを恐れなければ、岩を入れられる方法は必ず見つかる。だから若いうちから「壺いっぱい」なんてことを考えちゃいけない、というもの。おもしろいすね。